9月に入って残暑が厳しく、とても暑い毎日が続いたり台風が来たりと、季節の変わり目の激しさに体調を崩すお友達もいました。それでも確実に秋が近づいてきていて、柿の木の実が少しずつ大きく色づいてきたり、スイングの上のせんだんの木の葉がひらひら落ちてきたり、お部屋で飼っているコオロギがコロコロ♪チロチロ♫と鳴いています。先日おひさまえんで採れたカボチャで月見団子をみんなで作り、黄色い可愛いお団子にきな粉をまぶして頂きました。みんなよく食べること!食べること!食欲の秋ですね。
気温の変化に気を付けて過ごしましょう。着替えの洋服もチェックしてくださいね。
■懇談会
10月の許斐より子先生の懇談会は、10月24日(木)です。場所は宮司の公民館です。時間は、13時30分から15時までです。
是非皆さん参加してください。
■秋の健康診断について
10月に予定していました秋の健康診断は、12月11日(水)に変更になりました。また近づきましたらお便りします。
■お読みください
「幼児の中にあって生きること」 津守 真
幼稚園は子どもの教育の場であるというが、いったい教育の場というのはどういうことであろうか。おとなが子どもをいずれかの方向にひっぱっていこうと努力する場と考えてよいであろうか。そのような面はある。先生はそのクラスの子どもたちのことにいっしょうけんめいになるし、先生自身は理想や目標を高く掲げていることはたいせつなことである。しかし、それより以前に、子ども自身、生きることを求めている。幼稚園は、子ども自身が自らの生き方を求めて努力している場である。その努力というのはおとなのように局限された意味ではないし、その求め方はことばや文字や観念的な思想によるものではない。もっと体ごとのことである。そのような子ども自身の努力を前提としてはじめて教育の場は成り立つのである。
幼稚園で子どもが口をきかなかったり、乱暴したり、いうことをきかなかったり、けんかをしたり、その他おとなにとって不可解とみえる行動をするのは、子どもが自らの生き方を求めているからともいえる。子どもは自分がどうしたらよいのかを、子どもなりにさがし求めている。自分自身の生き方を求めているということにおいて、幼児も教師も共通である。
幼稚園の教師が子どもの中ではたらくということは、自分自身、人間としての生き方やあり方を求めていることが前提となっている。おとなとしての教師は自分の頭の中でからまわりすることが多い。しかし教師として子どもの中にあるときには、子どもという対象があり、相手があるから、自分のあり方をきめるのはより容易である。相手である子どもによりよく振舞うことができるようにということが明瞭な課題になるからである。
教師ということばは、児童や生徒に対する公的な役割を示す語である。一体、幼稚園の先生が、幼児の中における自分自身のことを意識するときに、教師ということばで意識するとしたら、何かたいせつなものが落ちてしまうのではないだろうか。「せんせい」は、子どもと社会的な身分の違いを前提として振舞うのではなく、人間として共通な部分によって相互に理解しあうのである。幼児と教師は、それぞれ、人間として生き方を求めている人間と人間である。そこで教師は、相手の人間がよりよく生きることができるようにということを、自分自身の課題として真剣にとりくむ人間でなければならない。
幼児の教育 第69巻第7号(1970年)から